自分がみつめているもの

 スマートフォンが広く普及してから、写真の在り方はずいぶん変わったと思う。デジタルカメラが増えてからは、プリントしなくなったとよく聞いたけれど、スマートフォンによって、もう一歩進んだような気がしている。

 それは、写真の共有の仕方に顕著に表れていて、それまでは誰かと写真を共有するときは、まだプリントすることが一般的だったものが、シェアするという方法に変わったことではないだろうか。その方が早くて手軽だから、もう必然としか言いようがない流れではあると思う。ただ、その一方で、タイムラインとして流れてしまい、みんな早くにその写真のことを忘れてしまうようになったのもまた事実ではないだろうか。

 僕自身は、iPhoneを使い始めたのはたしか2010年で、iPhone3GSだった。Instagramを始めたのは2011年だったから、もう8年も前になる。それまでは、写真といえばフィルム写真だったし、誰かと写真を共有するとはプリントを渡したりして見せ合うことだった。
 それにはやっぱり一手間かかるから、僕の場合は写真は自分で見ることが前提で撮っていたし、自分のためだけに写真を撮っていた。

それが、いつからだろう。Instagramやflickrにアップすることを前提に写真を撮るようになっていた。一人で写真を見ているよりも、誰かと分かち合った方が楽しい、というのはあると思う。でも、その間、何のために写真を撮っているのかを少しずつ見失っていっていたように感じている。

PENTAX K-1 smc PENTAX-DA* 55mm F1.4 SDM ISO140 F2.4 1/180
PENTAX K-1 smc PENTAX-DA* 55mm F1.4 SDM ISO140 F2.4 1/180

 
 先月、友人の写真展に行ってきた。塚本さんの写真は、Instagramを始めた頃から見ているので、かれこれ8年も見ていることになる。写真は中判フィルムからデジタルへと変わったりしてはいるものの、今も昔も写真そのものは変わっていない。

 これは、個人的な感覚だけど、Instagramにもflickrにもたくさん写真がアップされてはいるものの、誰かに見てもらうためというよりも、撮りたい写真を撮っていて、共有もしているだけ、という感じだと思っている。
 どの写真も不思議と優しい感じが漂っていて、いいなぁいいなぁと思いながら見ていたのだけど、それは塚本さんの視線そのものなんだろう。

 別に、何か特別な、決定的瞬間が撮られているわけではなく、どれもいつでもどこにでもありそうな日常の一コマの写真。でも、それが特別な瞬間の写真に感じられる。そんな写真ばかり。

 世の中に、誰にとっても特別な瞬間なんてものはない。
 あと付けで、特別にしているだけだ。でも、自分にとっての特別な瞬間ならいくらでもある。大なり小なり、ピンとくる瞬間はたくさんある。僕は、そんな瞬間が収められた写真が好きだ。きれいな写真とかうまい写真は、知識も技術も必要だから、見ていて気持ちがいい。でも、好きな写真は、その人が見ているものを感じられる写真だと思う。

 別に写真がなくても死ぬわけじゃない。
 でも、写真があれば人生の豊かさがちょっと増すような気がしている。

 そして、僕の場合、それは結局のところ自分のための写真で、自分が見ていたもの感じていたものが伝わる写真なのだと思う。だから、毎日毎日、性懲りもなくカメラを持ち歩いて、シャッターを切り続けている。自分が何を見ていて、何を感じていたのかを視覚化して残すために。

 塚本さんの写真展に行って、やっぱり撮った人の視線や気持ちが感じられる写真はいいなぁと改めて思い、自分が写真を撮り始めた原点を見つめ直すことにもなったのでした。惜しむらくは、一緒に行った子供達がはしゃぎまわり、じっくり写真を見ることができなかったことだろうか。でも、それもそれで良い思い出かな。

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