もう一度、フィルム写真
そういえば、長い間ブログを書いていないなぁと思っていたけれど、8ヶ月も放置していたんだな。
単純に時間が取れなかった、ということに尽きるのだけれど、全く時間が無かった訳ではなかったと思う。
この間、本はそれなりの数を読んでいたし、SNSにもかなりの時間が費やされている。週末にはランニングに1時間半程度の時間を使うようになったし、睡眠時間も意識的に増やすようになった。
要するに、ブログの優先順位が下がっていたんじゃないかな。
どうしてなんだろうと考えてはいたのだけど、優先順位が下がっていたのはブログに限ったことではなかったかなぁということに思い至った。
きっと「写真を撮る」ということそのものの優先度が、自分の中で大きく低下していたように思う。
でも、何故なんだろう。
おそらく、その理由の一つは「主体的に撮っていなかったから」かもしれない。
自分で撮っているつもりが、自分でも意識しないうちに、何かによって写真を撮らされていたような気がする。
SNSには写真が溢れているし、写真にまつわるブログも本当にたくさんある。
そんな情報に知らず知らずのうちに埋もれてしまっていた。
その情報の海の中を泳いでいるうちに、潮の流れに流されていたように思う。自分の意思でレンズを向け、自分の意思でタイミングを選んでシャッターボタンを押していたつもりだったけれど、それらは全て何かによって撮らされていたのかもしれない。
頑張って泳ごうと手を動かしても、自分が思っていた方角には進まず、流されるばかり。けれど、周りが見えてないからそのことに気がつかない。そしてどんどん流されていく。目には見えない何かによって。
もうずいぶん前の話になるけれど、まだフィルムカメラだけで写真を撮っていたころは、現像に出して仕上がったプリントを見るときが楽しみで仕方なかった。期待と不安が入り混じりながらも、撮ったときを思い出しながらプリントを一枚一枚見ていくことは大きな楽しみだったように思う。
できあがったプリントを見て、次はもっとしっかり撮りたいな、今度はどんなふうに撮ってみようかなと想像したりもしていたなぁ。
でも、今は写真を見ていてそんな気持ちになることもほとんどない。
何のために、誰のために写真を撮っているのかも分からなくなって、写真が好きなのかどうかすらも分からなくなっている。
だから、ブログを書く優先度もどんどん下がっていったのだろうなぁ。
そんな時に、ワタナベさんのノートを見かけて、何かピンときた。
何がピンときたのかはよく分からないのだけど、なにかざわざわするものを感じて、とりあえずフィルムカメラでまた撮り始めることにしてみた。
使うフィルムカメラとデジタルカメラはどちらもペンタックスのKマウント。言ってしまえば、フィルムか撮像素子かの違いでしかない。
それでも、写真や目を向けるものに対する気持ちが変わってくるのはなんでだろう。ファインダーを通して見えるものさえ少し違っているような気がする。
とにかく、今は、写真がとてもとても好きだった頃の気持ちを取り戻したいのだろう。
フィルムを使ってみるというのは、手段の一つにしかすぎなくて、根本的な解決ではないかもしれない。けれど、フィルムカメラで撮ることとデジタルカメラで撮ることの間には、見落としている何か大切なものがあるような気がする。
きっと、同じように感じている人はたくさんいるんじゃないかなぁ。でも、それが何なのか、みんなはっきりと分からない。考えようと捕まえようとしても、腕の間をするりと抜けていってしまうようで、うやむやになっているんじゃないだろうか。
違いに「時間」を挙げる人もいるし、「画質」に言及する人もいると思う。僕は、何か目に見えない類いのものだと思っているので、「時間」は大きく関係しているんじゃないかなと感じている。
でも、きっとそれだけじゃない。
もっと身体的で、触りごごちがあるような、感情に直接影響してくるような、そんな視覚、触覚、心という次元でも何かあるんじゃないだろうか。
時間を切り取る感触が違う、というのもある。写真に写るものは過去に存在していた一瞬。同じ一瞬なはずなんだけど、撮った写真を見返したときに、その一瞬に対する感じ方がなんか違う。
でも、それが何故なのかが分からない。ただ、それは、画質の問題じゃなくて、その写真がどのようにして作られたものなのか、という部分に多くの要素があるようには感じられる。
このあたりは、価値観の問題なのだろうなと思う。
写真を撮ることにおいて、何に重点を置いているのか。自分が何に対して価値を認めているのか。
ツールの違いは、自分が意識してもしなくても写真に現れる。不思議だけど。
しばらくは、このあたりのことをしっかりと考えていく必要があるかもしれないなぁ。
別に写真で生計を立てているわけでもなんでもないので、写真について時間をかけてどうこう考えるということにどれほど意味があるのかと考えないでもない。
それならもっと本読んだ方がいいんじゃないか、とか。
でも、なんでだろう。考えないわけにはいかない。
ただ記録するためだけに写真を撮っているわけでもないし、単に楽しいから撮っているというだけでもない。
ちょっと大げさな言い方になるけれど、どうして生きているのだろうとか、自分にとって大切なことは何なんだろうというようなことを写真を撮りながら考えているのかもしれない。
そして、それを伝えたいのかもしれない。分かってもらいたいのかもしれない。
デジタルカメラが中心になって、枚数を気にせず撮れるとか、暗いところでも撮れるとかクッキリハッキリきれいに撮れるとか、利便性はものすごく上がった。
でも、自分が写真に求めているものは、そういった価値の軸とは別のところにあったのかもしれない。
もちろん、レンズとカメラの組み合わせで撮れる写真が変わってくるから、フィルムが良いデジタルがダメという話でもない。
(やっぱりデジタルカメラの方が新しいから、一眼レフの場合、ミラーショックが少ないとかファインダーも見やすいとかハードウェアの進化はあると思う)
ただ単に自分が探しているものに近い組み合わせは何かというだけの問題。
それでも、とにかく藁をもすがる思いで、もう一度、フィルム写真を中心に撮るようにしようと思う。
フィルムも高くなったし、現像とプリントのお金もかかってくるんだけれど、仕方がない。きっとフィルムを買うことや写真屋さんに現像とプリントをお願いすることだって写真の楽しみのうちなのだから。
どうなるかはわからないけれど、もう一度、フィルム写真。
3 Comments
baba
2019年8月8日初めまして。
普段見るだけの人なので、こうしてwebに書き込むのは何年ぶりでしょうか。再開嬉しく、ついつい。
情熱。そんなに仰々しいことじゃないけど、続けることは満ち潮と引き潮みたいに私は思ってもます。
頑張ったところで無理が写ってしまい自分の気持ちが漂って嫌悪感すら生まれてしまいかねない。
嫌いになりたくない。好きは好きなままに育てるぞ、と私は生きております。
フィルムのよさは、その時の『光』そのものを閉じ込めたことで、唯一無二の人生の瞬間が形と重みを持って存在していた証を感じとれるからではないでしょうか。
しかし、フィルムの値がはり過ぎてお手上げです。アマゾンの富士ナチュラが暴利に見えないほどに。
それではまた。
長々と失礼しました。
YOYO1981
2019年8月8日>babaさん
初めまして。
コメントありがとうございます。
撮りたい気持ちには波もありますし、あまり細かいことは気にせず、時には距離を置きながらも、とにかく続けるということが重要かもしれないですね。
今はデジタルが主流ですから、フィルムを使うとその特徴がより感じられるようになったようにも思います。
価格上昇は本当に辛いところなんですが、これも時代の流れなのでしょうか…
スローペースの更新になるとは思いますが、またお読みいただければ幸いです。
baba
2019年8月9日こんなに早くお返事ありがとうございます。
書き慣れないため誤字脱字に変換ミスが目立っております。そそっかしいのです。
スローペースが私には丁度良いぐらいです。
既に書かれた文の量が、十分に未来を更新してくれていますよ。なにより同じ文を繰り返し読む私には、やっぱり丁度良いです。
ご家族、お幸せでありますように。